ロシア構成主義1

udf2004-09-19

近代建築の歴史の中で、ロシア構成主義はかなり哀しい運命をたどったのではないか。近代建築の歴史についてはいろいろあるが、必ず取り上げられるのは「アールヌーボー」、「バウハウス」etc。その中で長く影響を与え続けたのは、間違いなく「バウハウス」と言えると思う。コルビジェなど著名な建築家のことではなく、一つの運動体としての影響力についての話。
アールヌーボー」や「アールデコ」のように過去の様式からデザインを解き放つために、一過的に出現したスタイルは短期間でその役割を終えている。「装飾」的なスタイルは、「工場制機械工業」と言う資本主義の発展段階の生産方法には、明らかに不適当であるがゆえに生き残れるすべも無い。
バウハウス」も「ロシア構成主義」も意味合いはかなり違うとは言え、ヒットラースターリンと言う政治・権力によって葬られた点は似ているともいえる。とは言え「バウハウス」の歴史も西側諸国の中でさえ、一部が長い間隠されると言う不幸な時期もあるにはあった。初代の校長はグロピウスで3代目の校長はミースファンデルローエであることは知っていても、2代目の校長の名は余り知られていない。2代目校長のハンネス・マイアーが、社会的建築観を強く持っていたこと、他の校長と違いソビエトに亡命したことがその理由だろうが、当時すでにソ連は一国社会主義体制に入っており、最後はトロツキーと同じようにメキシコに渡っている。
国際連盟館」、「ペータースシューレ」のコンペ案や「ベルナウ・ドイツ労働組合総連合・連合学校」などを見ると、設計の上手さにおいても他の校長に劣るものではなかったようだ。
郵政省に入って最初の設計と言える都内のテラスハウス(N apartment house)を設計する時に参考にしたのも、マイアーが「バウハウス」時代にヒルベルザイマーと研究した教員住宅だった。
「ロシア構成主義」ではなく「バウハウス」の話になってしまったが、20世紀後半の建築・デザインを予見していた点で「バウハウス」を凌ぐものが「ロシア構成主義」には有ったのではないだろうか。特に、リシツキーのグラフィックデザインは現在でも新鮮さを失っていない。http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2002/lissitzky/
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2002/lissitzky/terayama/biotext02.html
学生の頃作った年賀状は、リシツキーの「赤い楔で白を撃て」と言うポスターやヴェスニン兄弟の「プラウダ計画案」をコピーしたものだった。勿論、その頃はコピーもPC無いので、1枚ずつトレースしてインキングして作っていた。
なんとなく単に過去を振り返るだけのようになってきたので、今日はここまで。
当時はもっぱら「SD選書」が参考資料だった。今日書いたことが取り上げられているものは以下のとおり。
SD選書「近代建築再考」:藤井正一郎著
SD選書「現代建築の源流と動向」:L・ヒルベルザイマー
SD選書「現代のコートハウス」:D・マッキントッシュ
SD選書「バウハウス[その建築造形理念]」:杉本俊多著

現代のコートハウス (SD選書 110)

現代のコートハウス (SD選書 110)


バウハウス―その建築造形理念 (SD選書 156)

バウハウス―その建築造形理念 (SD選書 156)


芸術倶楽部1974/1-2:ロシアアバンギャルド芸術特集」:フィルムアート社
Hannes Meyer : Buildings,projects and writings
casabella aprile 1962 vol.262(今日の写真:30年ほど前に神田の古本屋で入手したもの)casabellaの表紙になっている建物の計画案は、よく知られている、タトリンによる「第3インターナショナル記念塔」の計画案であるが、これについて端的に説明した文章が、「芸術倶楽部」に掲載されているので引用しておく。

空間言語の創造
「人民のための食糧、衣料、暖房、教育といった基礎的諸問題の解決によってもたらされる社会的成果が、それ自体いかに大きなものであっても、それだけでは、新しい歴史的原理の完全な勝利を意味するもわけではない。勝利は、新しい科学的思考法の国家的規模における形成と新しい美術の展開によってはじめて勝ち取られるであろう」(L-T)
タトリンの「第3インターナショナル記念塔」のプランは、芸術の新しい社会的機能の創造をめざした構成主義のもっとも代表的な作品である。それは、鉄とガラスという工業社会を代表する<材料の文化>のシンボルであり、また、光、電波、映像などの技術を駆使した公共的コミュニケーションを生みだす総合的モニュメントをめざしていた。鉄製のラセン形の内部には、ガラス製の三層の部屋があり、一階は一年で一回転する正六面体、二階は一月に一回転するピラミッド型、三階は一日に一回転する円筒形で、それぞれがソヴィエトの立法、行政のための集会所、それに通信所となる予定であった。そして、演劇やデザインにおいても、構成主義的志向はダイナミックな空間の言語を切り開いたのである。

ちなみに、この頃は「螺旋」が数多くの作品の中に現れる。螺旋形は「弁証法」的に現実を発展させていく(止揚する)思考法の象徴であったようだ。
[ロシア構成主義2⇒http://d.hatena.ne.jp/udf/20040920]