竜光院密庵の水屋

udf2005-03-27

昨日書いた、河原書店刊のシリーズ本「茶道文庫」23巻「水屋」(著者は「佐々木三味」とある)にあった、「竜光院密庵」の水屋。トップの写真はその本の挿絵として掲載されている「密庵」の水屋。
国宝の茶室は三席。織田有楽好みと言われる「如庵http://www.m-inuyama-h.co.jp/urakuen/movie.html千利休好みと言われる「妙喜庵待庵http://plaza.rakuten.co.jp/totti/2016http://www.wanogakkou.com/hito/0010/0010_nihon_wabi4.html 、それに小堀遠州好みといわれる「竜光院密庵http://d.hatena.ne.jp/udf/20050124
この中で「密庵」の知名度及び情報はかなり低いのではないだろうか。

密庵茶室 (国宝・江戸)
この書院の西北の間にあって、宋の密庵咸傑の墨書を掛けるところから、この名がある。
四畳半台目の席で、小堀遠州の好みといわれ、書院式の茶席としては孤蓬庵の忘筌茶室とともに代表的なものとされている。

特に水屋についての情報は皆無に等しいと思うので、この本から「密庵」の水屋についての部分を、かなり長いが貴重だと思われるので引用しておく。

竜光院は慶長11年黒田長政の建立で、その小書院につづく密庵の茶席は小堀遠州の好みとして、弧篷庵の山雲床の母胎をなすものであり、今日まで舊態を存して少しも変わっていないだけに、遠州の水屋を知る上に代表的なものである。本席は書院風四畳半台目出炉。本席の東隣が果然の六畳の控室、密庵床と背中合わせに台目床があり、本勝手に炉が切ってある。ここ瓦燈(?)形の茶道口の前へ、本席からの鞘の間がつづいて、北手へ鍵の手に半間幅、一間半の長さに呉縁*1張りとなり、これに添ふて西手の露地の方へ、間口一間、奥行二尺五寸に張り出して、水屋流しがある。流しは間口を台目に縮めて、左手に小丸太の柱を立て、高さが三尺余りまで胡粉摺の板を張って、この上が間口一尺四寸の深い物置、これは廊下の方から使う。
簀子流しは台目幅、奥行二尺二寸、一番上に二枚引違の小襖を入れた袋戸棚、この下が小障子二枚の向明り窓、その下に一枚の簀棚が、三分の二の所まで左方から延びて、袋戸棚から釣ってある。この下の方が簀子の流し。正面はハバキ板で水屋釘二三を打つ。
流しの左手は、胡粉摺の板張の後方(二尺四寸に一尺余)になって、下方は流しと面一に地板。上部は袋戸棚と直角に小壁、天井を張って、その下に一枚の棚、さらに正面の釣棚に載せて、三角形の隅棚がある。何れも流しの方から使ふ。簀子の右側は、高さ三尺二寸幅二尺の片木戸の片開きで、露地からの水汲口になる。
これと並んで、つまり呉縁張りの突当たりに半間幅に奥行二尺四寸の物入れがとってある。物入れの上半分は、掛房付の引手金物のついた山水画の観音開き小襖、左右に開いて内部に二段の棚。下部は鶏の書の杉戸引違ひの地袋、上の開きとの空間に、四方棚が左に寄せて小柱を立ててついている。
すべて風変わりな手の込んだ、遠州の好みそうな水屋である。

かなり複雑で書き写しているうちに混乱してくる。遠州の好みはモダンデザインに通じるシンプルでシャープなデザインのはずなので、余複雑なものは作らないのではないかと思うが、「創意工夫」と言う点では天才でも有るので・・・。
密庵は大徳寺の中の竜光院にあるわけだが、そこは元は遠州の居場所でもあった。
少し話がずれるが、大徳寺妙心寺といった寺は建築的に見てかなり面白い「パーツ」が揃っているのではないかと思っている。
郵政に入って最初の仕事は共同住宅だったが、建物自体は大先輩と共同で、そのプランを敷地に配置するものだった。
当初提案したものは、テラスハウスだったが、法規的に無理と言うことであえなく没になった。卒業間もなくで、「法規に縛られるな」と言う担当助教授の言葉を思いつつ案を作ろうとしたが、そんなに甘いものではなかった。勿論「法規に縛られない」ための方法をまだ知らなかっただけの話で、その言葉は今でも貴重なものと思っている。
そこで、外構計画を頑張ろうと、京都に庭・延段などを見に行った。その時の「教科書」は「日本の都市空間」。序文は丹下健三、執筆は「都市デザイン研究体」と言うもので、メンバーは、伊藤ていじ・磯崎新氏・象の富田玲子氏などだった。今でも時々取り出して眺めることがある。

日本の都市空間

日本の都市空間


数寄屋図解事典

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*1:縁側の長さに沿って板を張ったものをいい・・・。:数奇屋図解辞典