風声・燎〜前川國男

少し、「風声 京洛便り」と「燎 一つの栞」に触れておくと、「風声」は1976年10月8日に創刊されている。「第零号(試作版)」となっていて、風声同人は、岩本博行・大江宏・神代雄一郎・白井晟一前川國男・宮内嘉久・武者英二の7人、編集は宮内嘉久が行っていた。
そして、前川國男が亡くなった1986年7月、「風声」を改めINAXから「燎」として新たに出版されることとなった。
1995年に廃刊される時の同人は、大谷幸夫・神代雄一郎・永田祐三・宮内嘉久・武者英二の5名になっていた。
やはり、大江宏・白井晟一前川國男が抜けた意味は大きく、そのうちの一人でも残っていれば何らかの形で存在し続けたかもしれない。
「燎1号」は前川國男の追悼号でもあった。宮内氏の青山斎場における追悼の言葉の一部を引用しておく。

「・・・
前川さんの生涯は、この星の下で、あくまで自由への道を索め*1続ける闘いに終始した、と言えるのではないでしょうか。
建築家たろうとすることと、建築家であることとの間には千里の逕庭*2があります。その距りを埋めるのは、何者からも断乎として精神の自由をまもる勁い*3意思と、言葉の深い意味で己の非力を識ったうえでの不断の精進以外にはないでしょう。前川さんは、その志の高さにおいて、またそれを保ち続ける器の大きさにおいて、抜群の建築家でした。
・・・」

「日本のクラフト」が、前川國男の話にすりかわってしまったが、もう一つ、この「クラフトセンター・ジャパン」の機関誌「手−もうひとつの生活」*4の18号が、やはり前川國男の追悼で、神代雄一郎が『前川国男と「もの」』と言うテーマで追悼の言葉を書いている。
その一部を引用しておく。引用の部分がわずかで神代雄一郎氏の思いが伝わらないかもしれないが。

「・・・
その国立西洋美術館の裏側に、後に前川さん御自身が新館を増築されて、外壁に織部のタイルを使って話題になったことがある。とやかく言う人たちに対して前川さんは、「あれは、洟垂れ小僧の青っ洟の色さ。」と答えられた。「焼物は日本の建築素材として相当なウエイトを占めるべきだ、という考えはもともとあった。」と語られた前川さんだが、決してわびたりさびたりはしなかった*5。煉瓦造の東京駅との調和を考られえてだろうか、赤褐色の打込みタイルで覆われた東京海上ビルを作られた時にも、あれは「カチカチ山のタヌキのやけど色だよ。」と、いわれた。
・・・(帝国博物館コンペに関して書かれた後)・・・「建築っていうのは、人生のはかなさに対する何らかの存在感を索めたい、というところに本当の意味があるんじゃないかって思うんだな。」
・・・」

ポストモダン華やかな頃、前川國男が、「ファンクシショナリズムが古いって、何のこと?」と、ポストモダンを一蹴したことが、昨日のことのように思い出される。
時代の動きに敏感なことは良いことだが、軽々薄々に時代に流されることは避けなければならない、という警鐘として今も折々に思い出す言葉になっている。

*1:モト・め

*2:ケイテイ:へだたり。相違。

*3:ツヨイ

*4:この表紙の作り方、は「風声」や「燎」と同じ構成になっているが、神代雄一郎の影響香もしれない

*5:朝日新聞社屋で「黄瀬戸」のタイルを使って意気揚々としていた建築事務所があったが、今は汚れきってしまって・・・、やはり前川國男のように、しっかりした「テクニカルアプローチ」をしないと、「建築家」にはなれないのかもしれない・・・。