弱さのデザインを求めて

udf2005-04-29

リラインスhttp://www.le-bain.com/about/index.html)のショールーム内田繁氏のデザインで六本木に移ったことは以前書いたがhttp://d.hatena.ne.jp/udf/20050325、そのリラインスのSRに併設された「ギャラリー ル・ベイン」での展覧会。

アンドレア・ブランジ×内田繁 MODERNITA DEBOLE 弱さのデザインを求めて
会期:2005.5.10[Tue] - 5.27[Fri] 11:00 - 19:00
定休日:月曜 入場無料

トップの写真は、そのチラシからの写真。そのチラシには松岡正剛氏の文章が載っている。大変長くなるが面白い文章なので引用しておく。

考える脚
ブレーズ・パスカルは「人間は考える葦である」と書いたのではない。「人間は最も弱い一本の葦に過ぎないが、しかい、それは考える葦である」と書いたのだ。その次がさらに重要だ。この弱い葦を潰すにはたった一滴の蒸気でも十分かもしれないが、また、宇宙全体をもってしてもそれを潰せない、そう書いたのだ。一個の椅子を打擲するのはかんたんである。燃やすこともたやすいことだ。そんなことは誰にでもできる。しかしながら、その椅子にこめたデザインを消去することは不可能である。デザインとはそういうものだ。椅子は考える葦であり、考える脚なのだ。
 かつて人間の歴史は弱さを潰していくことによって肥大していった。強さを求める歴史は、国家となり資本主義市場となり世界警察帝国となった。また、工業社会では弱さは製品や商品の欠陥だとされてきた。しかしわれわれの精神に宿るものは、実は弱さや脆さを秘めている。むしろ精神の本質はフラジリティ(脆弱性)なのである。ということは、社会や文化の真相には必ずどこかでフラジリティがひそみ、それを圧し潰そうとすれば、きっとフラジリティの反撃を受けるということなのである。フラジリティは最も繊細な本質をもつ最も過激な思想なのである。
 パスカル以降、この人間と文化をめぐるフラジャイルな本質をめぐって、マルティン・ハイデガー、オスカー・ベッカーが、ルイス・トマスが、エットーレ・ソットサスが、あえて声を大きくして哲学を持ち出し、意匠を持ち出してきた。いまイタリアン・ハイデガーの潮流を受けたアンドレ・ブランジと「侘びと寂び」を孕んだ内田繁が、その新たな、そして静かな、フラジャイルな挑戦に乗り出している。二本の「考える脚」の動向を見ていたい。

かなり長い引用だが、最近の日本人の「哲学」の欠如は目を覆うばかり。たまにはこんな文章を読むのも悪くない。もっとも「実存主義的」な名前が並んでいるところなどは、やや気になるし・・・。松岡氏の「千夜千冊」に内田繁氏の「インテリアと日本人」が取り上げられている⇒http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0782.html
リラインスのショールームには行ったことが無いので、この機会に是非行ってみたいもの。